「大きい・・・」
ノルディスが茫然とつぶやく。
「これでは、千年亀というより、万年亀ではなくって?」
アイゼルの言葉は、まさに当を得ているようだった。
巨大な亀は、ひれのような前足を使い、軟らかな湿った砂地に穴を掘っていく。穴が十分な深さになると、千年亀は体の向きを変え、しっぽを穴の方に向ける。
亀は、しばらくの間、考え込む哲学者のように、動きを止めた。だが、やがて、ひとつ、ふたつ、と白く真ん丸な卵を、穴に向けて産みはじめる。
「まあ・・・!」
息を殺して見ていたアイゼルが、小さく叫んだ。
じっと閉じられた千年亀の小さな目から、透明な液体がにじみ出るように現われた。
「泣いているのね・・・」
見つめるアイゼルの目もうるんできた。ノルディスも、返す言葉もなくその情景に見入っている。
青白い月明かりに照らされ、荘厳とも言っていい千年亀の産卵は続く。月光を反射し、宝石のようにきらめく千年亀の涙が、ひとしずく、またひとしずくと浅い湖面に落ちる。しかし、落ちた涙はヘーベル湖の水に溶けることなく、青い月の光を宿したまま、水底にたゆたっている。
「まさか・・・!」
ノルディスはぎゅっと自分のこぶしを握りしめた。
無限に近い時間が過ぎたような気がしたが、おそらく1時間と経っていなかったろう。産卵を終えた千年亀は、卵を守るかのように後足でゆっくりと砂をかけ、穴を埋める。そして、来た時と同じように、悠然とした動作で、湖の中へ帰って行く。甲羅のもっとも高い部分が軽い水音とともに水面下へ消え、湖面はふたたび鏡のように静まり返った。
茫然としていたノルディスは、はっと気付くと脱兎のごとく飛び出す。マントがぬれるのも構わず、先ほど千年亀がいたあたりの水底を探る。固い、宝石のような手応えを感じ、それをそのまますくい上げる。
「どうしたの、ノルディス?」
事情を理解していないアイゼルが、いぶかしげに尋ねる。ノルディスが振り向いて、説明しようとした時・・・。
黒い、邪悪な影がふたりの頭上をおおった。
「きゃあっ!!」
アイゼルが大きな悲鳴を上げる。
「な・・・!」
ノルディスも、恐怖で身がすくんだ。
闇のように黒い頭巾とローブに身を包んだ人影が、地面からわき出たかのように、ふたりの前に立ちふさがっている。頭巾の奥に隠されているのは、人の顔ではなく、青白く光る不気味な髑髏だ。やせ細った手には、一撃で人の体を真っ二つにしてしまえるほどの大きな鎌が握られ、その銀色の鋭い刃がぎらりと光っている。
「クノッヘンマンが! なんで、こんな場所に!?」
まさに死神そのものといった姿のこの魔物は、主にヘウレンの森を根城にしている。ヘーベル湖周辺に現われたなどという話は聞いたことがない。
魔物は、威嚇するように、頭上高く差し上げた大鎌を振り回した。ノルディスはアイゼルをかばうように、木の杖を構えた。アイゼルはノルディスの背後でうずくまり、ふるえている。
自分の魔力は、この怪物に通用するだろうか?
だが、なんとしても、アイゼルを守らなければ!
恐怖にくじけそうになる心を奮い立たせ、ノルディスは精神を集中させる。握りしめた杖が熱を持ち、ぼうっと光りはじめる。
「いけるかっ!」
ノルディスの叫びと共に、白熱の光球が杖から魔物に向かって飛ぶ。しかし、クノッヘンマンは素早く身をかわし、ノルディスの魔力のこもった光は目標を失い、ヘーベル湖の沖合いの闇の中へ消えていった。
「しまった!」
すぐに魔物の大鎌が襲う。なんとか防いだが、衝撃で杖は根本から折れ飛んでしまった。魔物の髑髏の下から、勝ち誇ったような不気味な笑い声が漏れる。
ふたたび、鎌が振り上げられた。
(だめか・・・)
だが、次の瞬間、白い疾風が彼と魔物の間に飛び込んできた。鋭い金属音に、ノルディスは我に返り、目を開く。
ロマージュが、両手に握った2本の短剣をたくみに操り、『飛翔亭』での舞と変わらぬ流れるような動きでクノッヘンマンの攻撃を受け流している。
今度の相手は手強いとみたのか、魔物は一瞬、後ろへ飛び退がった。
「さあ、ここはあたしにまかせて。あなたは、アイゼルを安全なところへ連れていって」
このような火急の時でも、ロマージュの声に切迫した響きはなく、どことなく色っぽい。
わずかに躊躇したノルディスだが、すぐに気絶寸前のアイゼルを抱きかかえるようにしながら、少しでも戦場から遠ざかるように走り出す。