単調な馬車の旅も、5日目が暮れようとしていた。
ザールブルグの城壁はとうの昔に地平線の彼方に消え、馬車は峠につながるゆるやかな上り坂にかかっている。平地に比べると、揺れが激しくなり、アイゼルはひっくり返りそうになる自分の胃をなだめながら、馬車の壁にもたれかかっていた。思わず不平が出る。
「もう・・・なんて揺れなのよ。こんなの、人間が乗る乗り物じゃないわね。なんとかならないのかしら」
「そう? こんなの、揺れるうちに入らないよ。本当の揺れが始まるのは、山道にかかってからだからね」
「あなたって、本当に無神経な人ね。ひとがこんなに苦しい思いをしてるっていうのに・・・」
「あ、そうなの? ごめんごめん、あたしって、そういうとこ気が付かなくてさ〜」
あまりにもあっけらかんと言われてしまい、アイゼルは文句を言う気も失せてしまった。自分で調合した酔い止め薬をのみ、目を閉じる。
(この人には、悩みなんて、ないんだろうな・・・。ほんとに、おめでたい人・・・)
それでも、ミューがひっきりなしに話す、あたりの風景への感想や過去の冒険談のおかげで、アイゼルの気が紛れているのは確かだった。話し相手もないひとりだけの旅だったら、アイゼルは過去の苦々しい思い出と自己憐憫のために、押しつぶされてしまっていただろう。
がたん、とひと揺れして、馬車が止る。
「よ〜し、今日はここでキャンプだ。明日からは山道に入るからな」
と、御者の声。
アイゼルは、ふらふらと馬車を降りる。今の気分では、すぐには食事もとれそうにない。気分が治るまで、しばらくあたりを散歩してくるつもりだった。
「待ちなよ〜、どこ行くのさ。ひとりじゃ危ないよ〜」
ミューが追いかけてくる。アイゼルは構わず、草原をずんずんと進み、小高い丘の上へ出た。山から吹き降ろす涼風を受け、深呼吸すると、ようやく胸のむかつきが治まってきた。遠く、東の地平線を見渡す。その向こうには、ザールブルグがあるのだ。アカデミーの卒業式は、とうに終わっているはずだ。今ごろ、ノルディスは何をしているのだろう。
風景が、ゆがんで見える。思わず、涙がこみ上げてきたのだ。
「あんまり遠くへ行っちゃだめだよぉ。この辺は、もう狼の行動範囲に入ってるんだからさ〜」
ようやく追いついてきたミューが、並んで立つ。アイゼルの涙に気付き、
「どうしたの? おなかでも痛いの?」
「な、何言ってるのよ。夕日がまぶしくて、目にしみただけよ」
「そう・・・ならいいけど。さ、戻ろうよ。あたし、もうおなかぺこぺこで・・・あ! あれは!」
ミューが、不意に小さな叫びをあげて丘を駆け下りる。
「な、何よ、いきなり。どうしたって言うの?」
アイゼルも、わけがわからないまま後を追う。ミューは、丘の中腹にできた窪地にぺたんと座り込んで、なにかを一心不乱に見つめている。近寄って見ると、そこには子供の手のひらほどの大きさの白い花が、地面にへばりつくようにして群落を作っていた。
ミューがつぶやく。
「ホッフェンの花だ・・・。こんなところに、咲いてるなんて・・・」
たしかに、アイゼルにも記憶がある。実物を見たことはなかったが、インテリアの意匠などに時折使われている、南国原産の花だ。だが、ミューの声の調子が、普段と全然ちがう。ふと顔を上げると、ミューの目に大粒の涙がたまっているのに気付いた。意外なものを見て、アイゼルは目を疑う。
ミューは、ホッフェンの白い花をいとおしむように両手でなでながら、問わず語りに、
「この花はね・・・、あたしの思い出の花なんだ。あたしと、あいつとの・・・」
「あいつ・・・って?」
「あたしと同じ冒険者でね。お互い、冒険から帰って来ると、ホッフェンが咲き乱れてる丘の上で、自慢話をし合った・・・。もう、昔の話だけど・・・」
(そう。きっと、失恋したのね・・・。今のわたしと同じじゃない。それにしても、いつも能天気なこの人にも、そんな過去があったのね・・・)
アイゼルは、少し好奇心をそそられた。何気ないふりをして、尋ねる。
「それで、その人は、今どうしてるの?」
ミューが、感情を交えない声で、ぽつりと答える。
「死んじゃった」
「え・・・?」
「冒険の途中でね。魔物に襲われて、あいつとあたし、背中合わせで戦ってた。そこも、ホッフェンの花がたくさん咲いてたっけ。で、やっとのことで魔物を倒して気が付いたら、あいつが倒れてた。ホッフェンの白い花が、真っ赤だったよ。あっけないよね・・・」
アイゼルは言うべき言葉を失い、その場に立ち尽くした。自分の愛する人が死んでしまうなんて・・・。しかも、自分の目の前で。もし、ノルディスが死んでしまうようなことがあったら、自分は生きていけないだろう。
アイゼルは、初めて思い至った。ミューの、あのあっけらかんとした明るさは、生まれつきのものではなく、心の深いところにある傷を覆い隠すために身に付けたものなのではないか、と。
そして、自分が恥ずかしくなった。自分のつらさ、苦しさなど、その時にミューが味わったものに比べれば、何のこともない。ノルディスは、ちゃんと生きて、ザールブルグで暮らしている。思わず、ノルディスの笑顔が脳裏に浮かんだ。しかし、ここ数日に味わったような苦い思いは、浮かんでこなかった。
気付くと、ミューが起き上がって、照れくさそうに笑顔を見せている。
「ごめんね〜、辛気臭い話をしちゃってさ。さあ、日が暮れてきたよ。早く戻らないと、夕ごはん抜きになっちゃうよ」
「そ、そうね。戻りましょうか」
その場を立ち去る前に、アイゼルは振り返り、微風に揺れるホッフェンの純白の花を記憶に焼き付けた。
(つらいのは、自分だけじゃない・・・)
ホッフェンの花は、彼女にそう告げているかのようだった。