ある日、ザールブルグの街の酒場<飛翔亭>のカウンターで、店主のディオ・シェンクはふと、ため息をついた。店は準備中で、中にいるのは彼だけだ。
そこに、若い娘がひとり入ってきた。
装飾の多い緑色のローブと帽子という、この辺りの地域では誰もが錬金術士だと分かる格好をしている。
「悪いが、まだ準備中だ。もう少し待って...ああ、あんたか」
ディオは顔を上げて娘の顔を確認すると、表情を和らげた。
とはいえ、もともと渋い顔つきの男なので、大して表情が変わったようには見えないのだが。
「こんにちは、ディオさん。こんな時間に悪いですけど、仕事が出来たので持ってきました。これからまた外へ出かけるから」
彼女は背負い袋からいくつかの薬ビンを取り出してカウンターに置いた。
ディオはそれを確認する。
「そうか、いつも大変そうだな。...ほう、これならお客も満足するだろう。あんた、腕が上がってるんじゃないか?」
「そうですか?」
ほめられて、錬金術士は照れ笑いを浮かべた。
「ああ、最初の頃は本当に危なっかしいものだったが。ほら、仕事料だ。ちょっと多いが、とっといてくれ。これからもこの調子で頼むよ」
「ありがとうございます!」
にっこりと笑みを返し、娘は金袋を受け取った。
お金をしまいつつ、彼女はふと顔を上げてディオに言った。
「...ところで、珍しくため息なんかついてたみたいですけど、何かあったんですか?」
ディオは苦笑いを浮かべた。
「なんだ、見てたのか。...いや、別にかまわんのだが。フレアのことで、ちょっとな。あいつはもっと店を手伝わせろとうるさいが、親としては若い娘をこんな店で働かせるのはやっぱり...な」
フレアというのは、ディオの一人娘。<飛翔亭>の看板娘だ。
しかし一部の口の悪い常連客は、フレアのことを「飛翔亭の箱入り娘」と呼んでいる。父親が彼女を店に出したがらないのは有名な話だからだ。
もっとも、それも無理ないことであろう。
フレアは評判の美人で、心優しく愛嬌もある。<飛翔亭>の常連客の、どう少なく見積もっても半数は間違いなく、彼女の笑顔目当てに店に通い詰めているのだから。
錬金術士の娘は、慰めるように言った。
「フレアさんは、ディオさんのことを気遣っているんですよ。ディオさんはこの店をひとりでやってるんですから」
ディオは渋々認める。
「...ああ、分かってるさ。あれは本当に優しい子だからな。だが、だからこそ悪い男に引っかかりでもしたら大変だろう?」
彼はそこまで言って一度口を閉じ、一拍置いてこう言った。
「なああんた、惚れ薬の逆の働きをするような薬とかいうのは知らないかい? そういうのがあれば、俺も安心してフレアに手伝ってもらえるのだが...」
***
「...というわけなのよー」
「何それー。確かにフレアさんはモテるけど。そこまで親バカだとは、飛翔亭の親父さん、相当重症だね!」
所変わってザールブルグ郊外の川沿い。焚き火を囲んでマルローネとナタリエは大笑いしていた。
<飛翔亭>に来ていた娘がマルローネで、もうひとりの、剣を帯びた俊敏そうな娘がナタリエである。
ひとしきり笑った後、マルローネはこう付け加えた。
「もちろん、ディオさんは自分でもばかげていると思ったみたいで、その後『今のは聞かなかったことにしてくれ』って言ってたけど」
「いくら何でも、「<虫>よけの薬」は、ないもんねえ」
「笑わないでいるのは大変だったわよ。今まで良く我慢できたと思うわ」
マルローネはそう言うと、また笑い出した。ナタリエもそれに倣う。
その時、川原の後ろの藪が動き、ひとりの中年男がそこから出てきた。薪を抱えている。
「笑い声が聞こえていたよ。お嬢さんがた、何か面白い話でもあったのかね?」
「クーゲルさん」
男の名はクーゲル・リヒター。元王室騎士で、槍の達人だ。
クーゲルとナタリエは、街の外に出かけるマルローネが護衛として雇っている冒険者である。
街の外では凶暴な獣や魔界から紛れ込んだ怪物、そして盗賊がうろうろしているので、外へ出かける者は大抵、腕の確かな護衛を雇って襲撃に備える。
それはさておき。
ナタリエは、先ほどの<飛翔亭>のマスターの話を聞かせた。
話を聞き始めてまもなく、クーゲルの眉間のしわがみるみる深くなっていった。
「...と言ってたんですって。それでもう、おかしくて」
そしてクーゲルは、苦り切った声でこんな感想を口にした。
「ふむ。そういうことか。全くあいつは...。そうさな、ワシなら、顔を醜くする薬でも作ってやろうかと言ってやるね」
普段の彼の言動からは予想できないような皮肉のこもった発言に、二人は驚いた。
「そ、そんなことあの親父さんには言えませんよ!」
ナタリエはうろたえて声を上げた。クーゲルの苦い表情は変わらない。
「いや、それくらい言ってやらんと目が覚めないだろう。極端なことを言う奴には極端なことを言わないとわからんものだ。まったく、あんな父親を持ったフレアが気の毒だよ...」
いつになく、クーゲルの語気が荒い。普通じゃない。
「クーゲルさん?」
マルローネは、おそるおそる声をかけた。
クーゲルは、はっと我に返った。
「あ、いや...、つまらないことを言ったかな。気にしないでくれたまえ。...疲れたから、先に休ませてもらうよ」
そして、返事も待たずにそそくさと、傍らに出していた毛布を体に巻き付けて横になってしまった。
マルローネとナタリエは、いびきが響く頃になってやっと、小声で話し始めた。
「さっきのクーゲルさん、ちょっとヘンじゃなかった?」
「うん。いつもは、あんなきついことを言うようなひとじゃないもんねえ」
「年上のひとのことを笑うものじゃない、とあたしたちに怒るのなら、まだ解るけど...」
「どっちかというと、親父さんの方に怒っていたような。でもどうしてかな?」
首をひねるしか、為すすべのないふたりだった。
***
<飛翔亭>での一件を、マルローネがすっかり忘れてしまった頃。
クーゲルが、マルローネの工房にやってきた。
「あ、クーゲルさん。いらっしゃい。...散らかってますけど、どうぞ入ってください」
「いや、ここでかまわんよ」
クーゲルは入口に立ったまま、入ろうとしない。
(う...やっぱ、部屋が汚いからかなぁ)と、一瞬考えたマルローネだが、すぐに気を取り直した。
「どうなさったんですか?」
「ああ、まあその、お嬢さんに、折り入って頼みたいことがあってね...」
ぼそぼそと話し始めるクーゲル。
「実は、ワシとディオ...飛翔亭の親父とは、兄弟なんだよ」
「???」
「ほら、どことなく顔が似ているだろう?」
「そう言われれば...そんな気がするようなしないような...」
マルローネはすっかり混乱している。
クーゲルと飛翔亭の親父とが兄弟だ、という話も寝耳に水だが、それ以前に、なぜクーゲルがいきなりこんな話をするのかが、さっぱり解らない。