コンコン。
「は〜い、どなた?」
軽く叩かれた扉にマルローネは大きな声で呼びかけた。
扉が開き、銀髪に銀縁眼鏡のすらりとした少年が接客用のカウンターを回ってずかずかと工房の作業場に入ってきた。その顔を見て、マルローネは盛大に顔をしかめた。
「あんた...確かクライスとか言ったっけ?」
「おや、ちゃんと覚えていてくださったようで。また自己紹介する手間が省けて何よりです」
青紫色の目に意地の悪そうな表情をたたえ、口元を皮肉げにつり上げたこの少年は、クライス・キュール。マルローネが所属する錬金術士養成学校・「ザールブルグ王立魔術アカデミー」の学生である。
うっかり者のマルローネは知らなかったのだが、彼は不動の学年首席であるだけでなく、まだ3年生になったばかりにしてアカデミーいちの実力を持つ秀才として、結構な有名人らしい。
が、マルローネにとっては、単なる「ヤな奴」でしかない。
というのは、彼が先日ふらりとマルローネの工房にやって来て、「アカデミー創立以来過去最低の成績記録保持者の工房を見に来た」と、初対面のマルローネに向かって歯に衣着せぬ物言いで言ってのけたからだ。
自分でよく承知している欠点でも、いやそれだからこそ、他人にからかわれると我慢できない、というのはよくあることだ。まして、このようないかにも生意気そうな2つも年下の少年に、とあっては。
「で、何の用なの?」
いかにも厭そうに眉をひそめ、ことさらぶっきらぼうにマルローネは言った。美人と言って十分に通る容貌も、こんな表情をしていては台無しである。
クライスは工房の中をざっと見回し、
「しかしこの工房、あなたが住み始めてからまだ2ヶ月と経っていないのでしょう? それでここまで散らかすことができるとは、呆れるを通り越していっそ感心しますね。これも一種の才能でしょうか」
「用がないんだったら来ないでくれる!?」
マルローネは語気を強めて言った。
確かにほとんど掃除をしていないから、そう言われるのも仕方ないかもしれない。がしかし、こんな他人にとやかく言われる筋合いはないのだ。
「っと、忘れるところでした。つい工房のほうに気を取られまして。作業場の整理整頓は確実な調合を行う上で必須のことですから気になったのですが、ま、調合の成功率に興味がおありでないならば、そんなことはどうでもいいのかもしれませんねえ」
「帰るときはちゃんと扉を閉めておいてよ」
マルローネは彼に背を向け、本を手にして奥へ退がろうとした。こんな奴にいちいち付き合っていられない。
マルローネの背中に向かって、クライスは言った。
「あなた、以前“アルテナの水”の調合で爆発事故を起こしたそうですね」
「なっ、なんでそれを知ってるのよっ!?」
マルローネは思わず振り向いた。それは、卒業試験の追試としてこの工房を与えられる前、アカデミーの学生時代に、先生の研究室で補習を受けていたときの出来事だった。
「師が仰っていました。イングリド師は私の指導教官でもありますので」
イングリドとは、マルローネの指導教官である。つまり彼はマルローネとはきょうだい弟子だ、ということになるらしい。
「先生...」
マルローネは複雑な表情で、いつも厳しい師の顔を思い浮かべた。
先生は、どういうつもりでこんな奴に自分の昔の失敗談を語って聞かせたのだろう? まさか、こいつにイヤミのネタを与えるつもりで、なんてことはないだろうけど。
クライスは眼鏡をついっと押し上げながら言った。
「それで、あなたがどんな風に調合をするのか見てみたくなりましてね。差し支えなければ、後学のために見せていただけませんでしょうか」
「な...なんでわざわざ」
「ああ、無理にとは言いません。アカデミーきっての秀才に見せられるような腕前じゃないと謙遜する気持ちは尊重いたします。もっとも、あなたにそんな殊勝な気持ちがあれば、の話ですが」
これを聞いて、とうとうマルローネの堪忍袋の緒が切れた!
「わかったわよ、そんなに見たいなら見せてやろうじゃないのっ。“アルテナの水”なんて、今じゃ楽勝なんだからっ。ほら、ちゃんと商品として置いてあるでしょ!」
指し示された、カウンターと作業場を仕切る陳列棚をクライスは横目でちらりと見た。背板を抜いて向こうを見通せるようになっている棚の片隅に、確かに数本の小瓶が並べてあった。
「じゃ、早速始めるから、来なさいよ」
淡い光のような、自慢の金髪の頭をそびやかし、挑むような目をしてマリーは言った。
缶に入れた蒸留水、ほうれんそう、広口瓶に入れた緑の中和剤。
乳鉢にろ過器。
どんどん、がちゃがちゃと派手な音を立てて道具を並べるマルローネに、クライスが口を挟んだ。
「いつもそんなに乱暴なのですか? それでは道具が壊れてしまいますよ」
「うるさいわね」
不機嫌極まりない返事に、クライスはむっとして口をつぐんだ。
「...これでよし」
準備を終えて、マルローネは深呼吸をひとつした。
クライスは、少し離れた椅子に座って観察することにした。腕組みをして、様子を見守る。
おもむろに、マルローネはほうれんそうを取り、濃い緑の葉をちぎって乳鉢に入れ、すりつぶしだした。歌うように呪文を口ずさみながら、中和剤を加える。
空気の流れが変わった。それは普通の人には気がつかないが、ある程度以上経験を積んだ錬金術士にはおなじみの感覚だ。
錬金術の作業は、一見、既存の職人の作業(すなわち薬草師であったり金細工師であったりケーキ職人であったり)に似ているが、決定的に違うことがひとつある。
錬金術士は、ものの本質を変化させる。呪力によってものを元素にまで分解し、別のものに再構成するのだ。
したがって、多少俗っぽいたとえだが、例えば小麦粉がなくても、元素レベルでは似たような組成の“魔法の草(トーン)”を使って、カステラを焼くことができる。
実のところ、現状では調合のメカニズムそのものは経験則として処理されているので、この辺りの理論はまだ確立していないのだが、後にマルローネが、元素と元素を結びつける力を「呪価」と定義して既存の「純価」「力価」の概念と組み合わせた画期的な調合理論を、クライスの協力を得て発表した。しかしそれはまた別の話である。
それはさておき今の時点でも、錬金術の調合によって、元素が空気中に拡散したり、調合しているものの中に収束したりする、また調合に直接関係ない元素も、調合によって起こる「空気の流れ」に引きずられてその運動が活発になることなどは、錬金術士たちの間ではよく知られていた。
クライスは椅子にふんぞり返り、皮肉な笑みをたたえた表情のまま、マルローネの調合を観察していた。
ところが、いつの間にかその顔から笑みが消え、眼鏡の奥の青紫色の瞳には鋭い輝きが宿った。彼はマルローネとその周囲の虚空を、真剣な表情で観察していた。
マルローネの周りの空気、いや正確には空気に含まれる元素が、激しく動いていた。
多くは“アルテナの水”の原料に含まれている地と水の元素だが、空気中に散らばっている他の火や風の元素も一緒になって、ダンスのようにはね回り、渦を巻き、駆けめぐっていた。
クライスが注目したのは、元素の運動そのものというより、その“程度”だった。
“アルテナの水”は、初心者でも早くに調合できるようになる簡単な治療薬だ。
調合は「分解と再構成」だと言ったが、この薬を作るときに元素を分解し、再構成する力は小さな力で済む。だからこそ、熟練していない駆け出しの錬金術士でも作れる。
ところが、今マルローネが操っている呪力は、たかが“アルテナの水”を作る程度で必要になる呪力とは桁が違うのだ。それが、元素の激しい動きに反映されている。
かなり素質があると自負し、高度な調合を何度も手がけているクライスでも、調合のときにこれほど強力な呪力を使った経験はない。
それどころかアカデミーの講師陣が実習で調合を披露する時でさえ、もっと少ない呪力で十分な効果 を挙げている。
ひょっとすると、これだけの呪力を使わなければならない調合と言えば、少なくとも“エリキシル剤”クラスの、「秘術」と言うべき調合ぐらいかもしれない。
クライスは、ぞくっと背中が震えるのを感じずにはいられなかった。
もっとも、すぐさま意識上でそれを否定し、何も感じていないと思いこんだため、その震えが興奮から来たものなのか、あるいは恐れによってもたらされたものなのかは永遠に謎となったが。
陶器の器の中で、ろ過を済ませたほうれんそうと中和剤の混合物が翡翠(ひすい)色の輝きを放っている。
そこに蒸留水を入れて反応を起こし、反応が収まってからもう一度ろ過すると完成だ。
マルローネは、神妙な面もちで、蒸留水を反応容器に注いだ。注ぎながら、呪言の歌を歌い続ける。彼女の額には、汗が浮かんでいる。
容器の中身と蒸留水がふれあうと、まるで沸とうしているかのように、ぽこぽこと泡が湧いた。クライスはそれを見ると同時に、呪力が元素を、有無を言わさず引きはがし、こねくり回し、結び付けようとしているのを肌で感じていた。
通常、“アルテナの水”の反応は短時間で収まる。ところが今回の反応は、まるで収まる気配がなかった。いつまでも、ぼこぼこぼこぼこと泡が湧き続ける。...そして。
ぼんっ!!!
「きゃっ!」
爆発音が響き、すぐさま悲鳴があがった。クライスもとっさに両腕をかざして身構えた。