翌朝。
俺たちは、ザールブルグ・アカデミーの校長室にいた。
昨日、街へ帰る道々で、俺とマリーは何度もクライスに問いただしたのだが、彼の口から何も引き出すことはできなかった。
「明日にはすべてがはっきりしますよ」
と、謎めいた笑みを浮かべるだけだった。
そして今、校長室のテーブルの周囲に並べられた椅子に座ったクライスは、明らかにこの場の雰囲気を楽しんでいるかのようだった。マリーは、まだ寝足りないのか、寝癖のついた金髪を直そうともせず、あくびを繰り返している。俺はといえば、初めて足を踏み入れたアカデミー校長室に並べられた肖像画や、錬金術に関するものらしい置物などを、好奇心いっぱいに見まわしていた。もちろん、事件そのものに関する謎解きの期待もいや増していたのだが。
これからこの場で、アカデミー当局による『うに魔人』事件の真相究明委員会が開かれるのだ。俺たち3人は、証人として呼ばれているのだった。
重々しいきしみとともにドアが開くと、豊かな白い髭をたくわえた威厳のある老人が入って来る。壁に掛けられた肖像画と同じ顔・・・アカデミーのドルニエ校長だろう。校長はゆっくりと、俺たちの反対側の椅子に腰を下ろした。
「待たせてしまってすまない。間もなくイングリドとヘルミーナが来る。そうしたら、始めるとしよう」
ドルニエ校長は、穏やかな声で言った。
しばらく、居心地の悪い沈黙の中で待つ。
やがて、鋭いノックの音とともに、不機嫌な表情のイングリド先生が入って来る。激しい音をたてて、後ろ手にドアを閉める。
「おや? ヘルミーナはどうしたね?」
ドルニエ校長の問いに、イングリド先生はいまいましそうな口調で言う。
「ヘルミーナは、いません。消えてしまいました」
「何だって?」
「昨夜のうちに、出ていったようです」
俺はびっくりした。当事者が失踪してしまったのでは、真相は解明されずに終わってしまうのではないか。クライスを見たが、彼は無表情なままだ。
「この書置きが、残っていました」
イングリド先生が、表面には何も書いていない白い封筒を示す。
「読んだのかね?」
イングリド先生はうなずく。
「それで・・・? なにか、今回の事件の手がかりになるようなことは書いてあったのかね? 告白する内容とか・・・」
校長の言葉に、イングリド先生は憤然とした口調で答える。
「ヘルミーナが、そんなしおらしいことをするとお思いですか? 書いてあったのは、ただ、一言だけです。『自分の未熟さを鍛え直すために、旅に出る』と」
「何ということだ・・・」
校長は、白髭におおわれたあごに手を当て、テーブルに目を落とした。
「これでは、真相は闇の中ではないか・・・」
「その心配は、ご無用です」
校長が、はっと顔を上げる。イングリド先生も鋭い視線を向ける。
発言者は、クライスだった。
クライスは、芝居がかった仕草で立ち上がると、気取って眼鏡の位置を整える。
「私ならば、すべてをご説明できると思います」
「本当かね」
「はい。ですが、その前に、私の説明を補強するための証拠を、お目にかけたいと思います」
と、クライスはイングリド先生を見やる。
「地下実験室Aは、まだ閉鎖されたままですか」
「ええ・・・。ただ、ヘルミーナが置いていた私物や書物は、あの女が全部持ち出してしまったけれど」
「ふむ」
クライスはうなずいた。
「ですが、おそらくまだ残っているでしょう。ルーウェンくん、イングリド先生と一緒に行って、取ってきてもらえますか」
そして、クライスは俺とイングリド先生に、その証拠品とはどんなものなのか説明した。
俺とイングリド先生は、すぐに地下実験室へ下りた。
クライスが言っていた物は、確かにそこにあった。『講師用:生徒の使用禁止』と記された棚の中に。
俺は、それを手に取り、落としたりしないように注意しながら、校長室に戻った。
「ああ、あったようですね」
俺が取ってきた2本のガラスびんをテーブルに置くと、クライスはそれをみんなに指し示した。
そのびんのひとつは、確か、昨日、俺たちが地下実験室を家捜しした時にも目にしたものだった。
俺は、テーブルに並んだびんをあらためて見つめた。
一方のびんには、赤黒く、どろりとした液体が半分ほど入っている。そして、もう一方のびんの液体も同じようにどろりとしているが、こちらは濃い緑色だ。
「何だろう・・・。こんな薬品は見たことがないな。イングリド、きみはどうかね?」
ドルニエ校長が興味深そうに見る。イングリド先生は、黙って肩をすくめた。
クライスが静かに言う。
「この2種類の薬品と、あと『うに』がひと山あれば、あの怪物・・・マルローネさんの命名によれば『うに魔人』ですが・・・それを、創り出すことができます」
「何ですって!?」
マリーが叫ぶ。眠気もすっかりけしとんだという様子だ。
「もちろん、ここで実際に調合してみて、それを証明することは、あまりに危険なので行うわけにはいきませんが」
「それにしても・・・その薬品は、いったい何なのかね」
クライスは、意味ありげにマリーの方を見やった。
「おわかりになりませんか。この薬品の正体は、錬金術にはごく基本的な、ありきたりのものです。例えば、マルローネさんの工房にすら置いてあるような」
「なんか、その言い方、とげがあるわね」
マリーの発言は無視し、クライスは続ける。
「これは、『祝福のワイン』と『植物用栄養剤』です」
「ええっ、うそぉ!? 色や見た目が全然違うよ」
「確かに見た目は違いますね。なにしろ、数十倍に濃縮されたものですから」
イングリド先生の目が光った。
「ヘルミーナの仕業ね」
クライスがうなずく。
「そうです。イングリド先生もご存知なかったところをみると、ヘルミーナ先生が独自で編み出した技術でしょう。おそらく、旅をすることが多かったヘルミーナ先生が、基本的な薬品を持ち運ぶ手間を減らすために、このような方法を考案したのだと思います。必要に応じて、蒸留水などで薄めて元の濃度に戻し、使っていたのでしょう。私たちのように、研究室やショップに行けば、すぐに薬品が手に入る環境にいる者には、とても思いつかない知恵だと言えるかも知れませんね。私がこの知見を得たのは、下宿先の家主さんが調理用のソースを濃縮して使っているのを見た時でしたが」
そうだったのか・・・! 俺ははたと膝を叩いた。マリーとルイーゼが料理を習っていたあの時、ハドソン夫人は自慢げに、“秘伝のソース”について講釈してくれたものだった。あの時、クライスの目に宿ったひらめきを、俺も覚えている。
「しかし、そのような基本的な材料から、あのような恐ろしい怪物が、果たして生まれるものだろうか」
ドルニエ校長がつぶやく。 クライスは、テーブルに沿って歩きまわりながら、
「基本は、『生きてるうに』です。ヘルミーナ先生の著書、『魂の秘術・改訂版』に載っている、ヘルミーナ先生のオリジナルレシピです。これについては、私もマルローネさんの工房で実際に調合してみました」
俺とマリーがうなずく。クライスは右手を眼鏡に添え、
「しかし、生命付与の術は、非常にバランスが難しいものです。通常の場合、バランスが狂ってしまえば、それは失敗に終わるだけです。しかし・・・」
足を止め、テーブルの上の『祝福のワイン』と『植物用栄養剤』の濃縮液を指し示す。
「もし、濃縮された原液がそのまま使用されたとしたら、激烈な生命反応を誘発し、巨大化、狂暴化といった変異体が生じる可能性を否定することはできません」
「それでは・・・」
ドルニエ校長が、乾いたくちびるを舌で湿らせながら、つぶやく。
「やっぱり、犯人はヘルミーナだったのね」
イングリド先生が、言葉を絞り出す。意外にも、怒っているような様子はなく、絶望しているような口ぶりだった。
「それは、違います」
クライスが静かに言った。あまりにも平静な口調だったので、あやうくその言葉の重大さを聞き逃してしまうところだった。
「どういうこと!?」
イングリド先生が問い詰める。
「昨日、ヘルミーナ先生は、はっきりとおっしゃいました。『あの怪物は、わたしが創ったのではない』と。イングリド先生、ヘルミーナ先生は、あからさまな嘘をつくような人だと思いますか」
イングリド先生は、額に手を当て、首を振った。
「いいえ・・・。彼女は、そんな人間ではないわ。隠し事をすることは多いけれど、嘘をついたことはない・・・」
「その通りだ」
ドルニエ校長も、うなずく。
「じゃあ、誰が犯人だって言うのよ!?」
マリーの言葉は、その場にいたクライス以外の全員に共通の思いだったろう。
「ちょっと待ってくれ。その前に・・・」
俺は口を挟んだ。
「俺が森で見た、ヘルミーナ先生がやっていた儀式は何なんだ? どんな意味があるんだろう?」
「ああ、あれですか」
クライスが俺の方を向いた。
「あれは、ヘルミーナ先生が、先生なりに、事態の収拾をはかろうとしていたのでしょう。なんらかの術を使ってね」
「説明になってないぜ」
「ちょっと待ってちょうだい。いったい何を見たの?」
イングリド先生にはまだ話していなかったのを思い出した。
俺の話を聞くと、イングリド先生はうなずいた。
「それは、おそらく『ゲート』の術ね。ヘルミーナが東の大陸を旅していた頃に会得した技で、魔法陣の中へ敵を誘いこみ、その結界を利用して異界へ放り出して消してしまうというものよ」
「そうか。それを使って、怪物を消し去ろうとしていたわけか」
俺の疑問は氷解した。
「でも、なんで『うに』を燃やしてたんだろう?」
マリーが質問する。
「怪物をおびき出すためですよ」
クライスが答える。
「『うに』を粗末にするとバチがあたる・・・この言い伝えは、真実だったということです。あの怪物は、自然の本能のなせる技か、自分の同類、つまり『うに』を、虐待から守ろうとしていたと考えることもできます」
「あ、そうか。だから、“うに投げ”をしていた武器屋の親父さんを襲ったのか・・・」
マリーが納得したように言う。クライスはうなずいて、
「あのような言い伝えが残っているということは、遥かな昔にも、ああいった怪物が出現したことがある、名残かも知れませんね」
「それはそれとして・・・」
イングリド先生はクライスを見る。
「さっき、ヘルミーナは犯人ではないと言ったわね。では、本当の犯人はどこにいるの?」
クライスは向き直った。
「確かに、はからずも今回の事件をお膳立てしたのは、ヘルミーナ先生です。ヘルミーナ先生の濃縮薬がなければ、このような事件は起こらなかったわけですからね。しかし、ヘルミーナ先生が予想もしなかった偶然によって、怪物が創り出されてしまった・・・。言ってみれば、今回の事件は、不幸な事故だったのです」
「何ですって!?」
「どういうことかね」
イングリド先生とドルニエ校長の声が重なる。
「私がそれを告げたところ、ヘルミーナ先生も納得したようでした」
クライスは淡々と言った。
「そっか、あの時か」
マリーのつぶやきに、俺は昨日、怪物が退治された後でクライスがヘルミーナ先生に何事かをささやきかけていたことを思い出した。
クライスは窓辺に寄り、外で鳴り渡るアカデミーの鐘の音を聞いていた。
「そろそろ七の刻ですね・・・。失礼ながら、イングリド先生の名前を使って、重要参考人を呼んであります。もうそろそろ、来る頃ですが・・・」
その時、小さなノックの音がした。
「お入り」
ドルニエ校長の声に、ゆっくりドアが開き、水色の錬金術服を着た金髪の生徒がおずおずと入って来る。マリーが息をのむ。
それは、ルイーゼだった。