ゆーら博物館〜アトリエ・俺屍ファンサイト〜

白い霧の中、俺はなにかを求めて必死に走っていた。

いつから走っていたのかわからない。息が切れ、心臓が破裂しそうなほど打っているのをみると、かなり長いこと全力で走っていたのに違いない。

不意に、前方のミルク色の霧を裂くように、一条の光が走る。その向こうに、俺が捜し求めているものが見つかるに違いない。俺は、右手をいっぱいに伸ばし、最後の力を振り絞って走る。 霧の彼方にかすかに浮かび上がる、ふたつの影。近付くにつれ、ぼんやりと人の形を取り始める。あれは、確かに・・・。

その時、別のところから悲鳴が聞こえた。かすかに尾を引く、若い女の悲鳴だ。一瞬、そちらの方へ注意が向く。霧が渦巻き、薄れ、もう少しで手が届きそうだった、ふたつの人影は視界から消えた。声にならない叫びが、心の中にほとばしる。

(待ってくれ・・・。行かないでくれ・・・!)

 

例えようもない喪失感とともに、俺は目を開いた。

薄汚れた板張りの天井が見える。背中には、固いベッドの感触。

「そうか・・・。また、あの夢か」

俺はつぶやいた。現実感が徐々に戻ってくる。

ここはシグザール王国の王都ザールブルグ。その下町にあたる『職人通り』の一画にある安下宿の2階のひと部屋だ。そして俺の名は、冒険者のルーウェン・フィルニール。

再び、薄い壁越しに若い女がわめく声が聞こえた。俺の目を覚まさせるきっかけになった、あの夢の中の悲鳴は、現実のものだったのだ。耳をすますと、それに重なるように、静かな低い男の声も聞こえる。

・・・またやってやがる。

俺はにやりと笑ってベッドから起き、素早く身支度を整えると、廊下に出た。

この下宿は狭く、2階には部屋はふたつしかない。俺は手前の部屋を借りている。そして、奥の部屋の住人はというと・・・。

俺は、奥のドアを軽くノックし、相手の応答を待たずにドアを開いて部屋の中を覗きこんだ。どうせ、今の状況では、部屋の主にノックに応えるだけの余裕はありはしないだろう。

部屋の主は、窓際に立っていた。黒っぽい部屋着を着込んだその男は、銀髪で、それに合わせてあつらえたかのような銀のフレームの眼鏡をかけている。身長は俺とさほど変わらないが、色白で細身の身体は、昔から冒険者として鍛えてある俺の体格とは対照的だ。錬金術を教える王立魔法学院ザールブルグ・アカデミーで17歳の時から首席をとっていたという秀才、クライス・キュールだ。

そして、クライスの目と鼻の先で大きく開かれた向かいの家の窓。その窓の向こうで、空色の目をつりあげてクライスをにらみつけているのは、女性錬金術師のマルローネだ。冒険者の間では愛称のマリーで通っている。マリーは寝間着姿で、普段は髪飾りでまとめてある豊かな金髪が、寝乱れて、肩から胸、背中に流れるようにまとわりついている。

マリーが使っている工房は、この下宿の真裏に当たっており、ひと月ほど前に入居したクライスは、はからずもマリーの寝室の真正面で暮らすことになってしまったのだ。お互いの窓は、腕を伸ばせば届きそうな距離しか離れていない。

 

いきなり俺が入っていったことで、それまで戦場で飛び交う矢のように立て続けにやりとりされていたふたりの言葉が止まった。クライスは振り向き、マリーの視線もこちらを向く。

「おはよう、おふたりさん。朝っぱらから、にぎやかなことだな」

眠りを乱されたこともあって、ちょっぴり皮肉をこめて声をかける。

「ああ・・・。失礼。起こしてしまいましたか」

眼鏡の位置を整えたクライスが、軽く頭を下げ、マリーを見やる。自分が悪いのではなく、マリーのせいだとでも言いたげだ。

一方、マリーは、新しい聞き手をつかまえたとばかりにまくしたてる。

「あっ、ルーウェン、ちょっと聞いてよ! クライスったら、あたしの寝室を覗こうとしたのよ! いいえ、覗こうとしたんじゃなくて、覗いたのよ! ほんと、最低だわ。ただ嫌味なだけじゃなくて、変質者だったなんて!」

マリーが息をついた隙に、クライスが言葉をはさむ。

「今のマルローネさんの非難は、一方的かつ偏見に満ちています。私は朝の新鮮な空気を室内に入れようと、窓とカーテンを開けただけです。これは、人間として常識的かつごく自然な行動です。他人の部屋を覗き見ようなどという 意図はまったくありません」

「だって、あたしが寝ていて、物音がしたので目を開けたら、こいつと目が合ったのよ!」

「それは、たまたまです」

本当にたまたまだったのかどうか、俺には疑問だったが、素直にうなずいておく。クライスは続ける。

「だいたい、若い女性が窓を開けっぱなしで寝るなど、無用心もいいところです。非常識きわまりないとしか言いようがありません。覗かれただの何だのと騒ぐ前に、常識というものをわきまえてほしいものですね」

「だって、窓を閉めて寝たら、暑いじゃない」

「だったら、以前、私が言ったように、カーテンくらい付けたらどうですか。私がここへ引っ越してきて、不本意ながらあなたの隣人となってしまったことに気付いた時、最初に言いましたよね。『プライバシーを守るために、お互いにカーテンを付けましょう』と」

「だって、それは・・・」

「面倒くさくて、1日延ばしにしてきたのでしょう。私はあの時、すぐ翌日にカーテンを付けましたよ。だいたい、納期を守るというのは錬金術師としても最低限の常識でしょう。私から見ても、あなたという人は・・・」

「う・・・うるさい! うるさ〜い!!」

マリーは両手で耳をふさいで怒鳴った。うるさいのは当のマリーの方だと思うのだが。

マリーとクライスの口論は、いつもこの調子で終わる。マリー独特の理不尽な論理と迫力も、結局はクライスの冷徹な論理の前では敗れ去ってしまうのだ。

「とにかく、あたしはゆうべも遅くまで仕事していて、寝不足なんですからね! 寝直すから、今度はちゃんとカーテン閉めといてよ! じゃあね!」

言いたいだけのことを言ってしまうと、マリーはそのままベッドにもぐり込み、背中を向けてしまった。

クライスは、俺に目を向け、ひとつため息をついた。そして、素直に自分の窓のカーテンを閉める。

「これ以上、言いがかりをつけられてはたまりませんからね」

その時、階下から俺たちの名を呼ぶ声が聞こえた。

 

「朝ご飯ができたよ! みんな下りといで!」

家主のハドソン夫人の声だ。

数ヶ月前から、この下宿は朝食を出すようになった。その分、家賃は少し上がったが、酒場で朝飯を食うことを考えれば、こちらの方がよほど安上がりだ。しかも、ハドソン夫人の料理の腕はなかなかのもので、献立も種類が多い。

急に腹が減ってきた俺は、すぐに階下へ下りる。クライスも続く。

1階奥の食堂から、ハドソン夫人が顔を出した。

「おや、ふたりだけかい? コーデリアさんは?」

屋根裏部屋の住人のことだ。

「さあね。寝てるんじゃないのかな」

俺は首を振った。心はもう、あつあつのパンケーキやチーズ入りオムレツ、コクのあるポテトスープに薫り高いコーヒーといった、おなじみの朝食メニューの方へ飛んでいる。

「まったく、しょうがないねえ」

ハドソン夫人はどたどたと階段を上っていった。

「ちょいと、コーデリアさん! 起きとくれ! 朝だよ!」

天井に響くくらいの声を張り上げる。

しばらくして、のろのろと屋根裏部屋の住人ナタリエ・コーデリアが下りてきた。赤紫色の髪をした、小柄な若い女だ。俺より年下だと思うが、詳しいことは知らない。俺と同じように『職人通り』の酒場を根城に冒険者稼業をしているらしいが、あまり親しく話したことはないのだ。下宿でも、普段はいるのかいないのかもわからない。

ナタリエは、ぼさぼさの頭をかいて、大あくびをした。

「なんだよ、こちとら徹夜明けで、寝入ったばっかりだっていうのにさ」

「徹夜明けだなんて、若い娘が・・・。まったく、夜遊びばっかりしてると、ろくな大人になりゃしないよ」

「子供扱いしないでくれよ」

母親のようなハドソン夫人のお説教に、ナタリエがぶつぶつ文句を言う。

「さあ、早く食堂へ行った行った。今日の朝食は、特別メニューなんだから、下宿人みんなに食べてもらわなくちゃね」

下宿人みんなと言っても、この3人だけだ。1階のひと間は、しばらく前から空きになっている。

ハドソン夫人に追いたてられるように、俺たちは食堂へ入った。

 

席につこうとした俺は、ふと眉をひそめた。なにかがいつもと違う。普段は、暖かな湯気がテーブルに漂い、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐるのだが、今日は違った。なんとなく焦げ臭く、薄い煙が天井にたちこめている。

「何ですか、これは」

テーブルに並べられた料理を一瞥したクライスが、つぶやく。

「食いもん・・・か?」

眠そうな目をこすりながら、ナタリエも言う。

椅子に座った俺は、フォークを取り上げ、皿に盛られたその代物を突ついてみた。

2枚重ねのパンケーキは、1枚は焦げて表面が炭になっており、もう1枚は生焼けで白い。オムレツらしきものは、黄身と白身が分離したままで、半生のその得体の知れないどろどろしたものが、チーズの固まりを覆っている。シチュー皿では、煮詰めすぎて半固形状態になったポテトスープの残骸らしきものが異臭を放っている。グラスに注がれた果物ジュースは、皮の切れっぱしやら種のかけらやらで濁っている。

俺は目を上げて、ハドソン夫人を見た。これはなにかの悪い冗談だとしか思えない。それとも、ハドソン夫人の料理の腕が、突然、初心者に戻ってしまったとでもいうのだろうか。

腕組みをしたクライスも、料理には手を出さず、もの問いたげな視線をハドソン夫人に送る。

恐る恐るパンケーキのかけらを口に運んだナタリエが、顔をしかめて吐き出す。

「なんだこれ、塩っ辛いよ」

ハドソン夫人はもじもじと落ち着かず、複雑な表情を浮かべて俺たちの顔を見回していたが、やがて、覚悟を決めたように話し出した。

「い、いえね、今日の朝食は、あたしが作ったんじゃないんだよ。あたしの姪っ子が、今度この下宿で暮らすことになったんで、下宿代代わりに料理の仕度くらい手伝わせようと思ったんだけど・・・やっぱりダメだね、こりゃ」

苦笑してみせると、ハドソン夫人は奥のキッチンに向かって声をかけた。

「出といで、ルイーゼ。みなさんにご挨拶しな!」

「はい・・・」

かぼそい返事が聞こえ、声の主がおずおずと姿を現わす。濃いブルーの瞳と鮮やかな金髪が目立つ。顔立ちは整っているが、視線は宙をさまよい、どことなくぼんやりしているような印象だ。

クライスが、眼鏡の位置を整え、改めて新来の若い女性を見やる。観察し、分析しようとする、研究者の視線だ。クライスの興味を引いたのは、おそらく彼女の服装だったろう。

彼女は、錬金術服を着ていたのだ。アカデミーの学生が身に着けている、おなじみのやつだ。水色の錬金術服が、金髪によく似合っている。

「あ、あの・・・。ルイーゼ・ローレンシウムです。よろしくお願いします」

ゆっくりとした口調で言うと、ルイーゼはぺこりと頭を下げた。頭を下げた拍子に、柱に額をぶつける。鈍い音がして、俺たちは息をのんだが、ルイーゼはきょとんとした顔で、ぶつけた額にそっと手をやり、しばらくなでてから、照れたような微笑を浮かべた。

ハドソン夫人が遠慮のない口調で言う。

「ほんとに、この娘はとろいんだからねえ。いやね、身内の恥だけど、白状しちまうよ。ルイーゼはアカデミーの生徒なんだけど、成績が悪くて、とうとう留年しちまったのさ。それまではアカデミーの寮にいたんだけど、留年したおかげで寮にいる資格もなくなっちまって、仕方がないから今月からうちで面倒みることにしたってわけさね。まったく、キュールさんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいよ」

「残念ですが、私は爪はいつも清潔にしていますので、ご希望には添えません」

クライスが答える。本人は大真面目に答えたのだが、ハドソン夫人は冗談だと思ったらしく、大笑いしてクライスの肩をどやしつけた。

「あっはっは、まあ、これも何かのご縁だからね。せっかく同じ屋根の下に優秀な先輩がいるんだ。なにか困ったことがあったら、遠慮なく相談するといいよ」

後半の言葉はルイーゼに向けられたものだ。クライスは迷惑そうに眉をひそめたが、さすがに辛辣な言葉を吐くのは控えたようだ。

「あ、はい、でも・・・」

ルイーゼは所在なさげにもじもじしている。 俺はその場を取り繕おうと、声をかけた。

「ところで、参考までに聞きたいんだけど、今朝のこのメニューは、何ていう料理なんだい?」

この質問に、ルイーゼはぱっと顔を輝かせた。

「はい。これは『ハチミツ入りパンケーキのグランビル風』、そちらは『シャリオチーズのフワレルクオムレツ』、それに『マッシュルーム入りポテトスープのロブソン村風』と『フレッシュランドージュース』です。合わせて975キロカロリー。炭水化物、たんぱく質、ビタミン、ミネラルのバランスも良く、理想的な朝食メニューです」

流れるようにすらすらと言葉が続き、俺はあんぐりと口をあけてルイーゼの口元を見つめていた。さっきまでの内気そうなぼんやりした態度とはまるで別人だ。

「確かに理想的なメニューですね。もっとも、ちゃんと口にできる状態に仕上がればの話ですが」

クライスが口をはさむ。ルイーゼは表情をくもらせた。

「ごめんなさい・・・。ちょっと失敗してしまったみたいで・・・」

「“ちょっと”か? 砂糖と塩を間違えるのが“ちょっと”か?」

ナタリエが小さな声でつぶやく。幸い、このツッコミはルイーゼの耳には届かなかったようだ。

ハドソン夫人が再び口を開く。

「ほんと、変な娘だよ、この娘は。今みたいに、料理のレシピとかカロリーとか栄養とかは、何百と覚えていてすらすら言えるっていうのに、実際にやらせてみるとからっきしなんだからねえ。まあ、しょうがないね。明日っからは、朝食はちゃんとあたしが作るよ。みんな、今日は悪かったね」

それをしおに、俺たちは引き上げることにした。ぐーぐー鳴る腹の虫をかかえながら。

 

階段を上りながら、俺はクライスに話しかけた。

「なあ・・・」

「ん、何です?」

「錬金術師ってのは、みんな料理がヘタなのか?」

俺は、以前にマリーと一緒にメディアの森へ冒険に行った時、マリーが作った怪しげなスープを食わされて、一晩中、死ぬ思いで苦しんだことを思い出していた。

「そんなことはありません」

クライスは振り向きもせずに答えた。

「たまたま、私たちの周囲に悪いサンプルが集中しているだけですよ」